耶馬ホームページ管理人からのご挨拶

タカ子3歳の頃

 
母は、1936年、江東区の石油卸業を営む家の長女として生まれました。学校卒業後に外資系企業に数年勤務し、英文タイプの仕事をしながら語学を学びました。1960年父と結婚、父の経営する建築・不動産会社の総務・経理を手伝う傍ら、幼少のころから絵を描くことが好きだったこともあり、油絵とデザインを学ぶため美術学校に通いました。
そして、1976年3月、私が10歳の時に「耶馬」を開業したのですが、今、考えるとキルト店の経営は、「語学」「デザイン」「経理」と母がそれまで経験し学んできたスキルの集大成だったように思えます。 

耶馬は、オープン当時では珍しい海外からの講師招聘や輸入生地の豊富さでも話題となり、お客様が全国から訪れていただけるお店になりました。その後90年代に入ると国内店舗も積極的に展開し、「吉祥寺」「札幌」「湘南」「三島」「知立」「半田」「梅田」の7店舗となり、加えて新業態として通信教育ビジネスにも力を入れ、述べ受講者数が11万人を超えるなど、世のキルトブームにも乗って、順調に拡張していきました。

左:OL時代(20代前半)/右:1976年耶馬開店当時

 


左:2001年キルトジャパン紙、読者のキルトショー審査会
右:とても仲の良かったジニ―バイヤー先生と
 

その背景には、「セミノール」「ウォーターカラー」「ブティー」「ボルチモア」「セルティック」など、様々な技法やパターン(デザイン)を海外からいち早く取り入れ、各教室や通信講座、専門誌の出版などにより、日本での普及活動に力を入れるなど、ソフト面の充実に重点を置いていたことがあります。
 

そのための情報収集として、現在のようなインターネットなどの安易な情報検索手段がない時代に、海外各地のキルトイベントやキルトショップを回り、その際、時間を作っては現地で講師や仕入れ先の開拓をし、また時にはキルト研究のためにインディアン居留地まで足を運び見分するその母の行動力と探究心には、息子ながら感心するものがあります。
 

しかし、そんなフロンティア精神旺盛な母を襲ったのが、10万人に1人の難病でした。有効的な治療方法もないまま10年に及ぶ闘病生活の末、2011年1月20日、永眠いたしました。それでも最期まで母らしかったのが、亡くなった日はちょうど、耶馬を閉店した日と同じ1月20日、さらに、翌日から東京ドームで「国際キルトフェスティバル」が開催され、全国からたくさんのキルト関係者の方々が弔問に訪れてくださったことです。旅立つタイミングまで母のパワーを感じます。


左:キルトジャパン紙掲載写真(お店にて)
右:2006年30周年のキルト展にて

 1971年、シアトルの友人宅での1枚のキルトとの出会いが母のその後の人生を大きく変えました。まさに趣味として始めたキルトでしたが、やがて趣味の領域を超え、ライフワークとして一意専心に取り組むことが出来た「耶馬」は母にとって生きがいそのものだったように思います。改めてそんな母を支えていただいた耶馬のスタッフ・講師の方々、そして小ぎれ詩の会のメンバーはじめ関係者の皆様方に母に代わり御礼を申し上げます。
有難うございました。
 
 

小野山武男