メッセージ 

生前お世話になった方々からメッセージをいただきました。
キルトの普及のため、一緒に歩んだ大切な方々です。
これからもキルトを愛し、たくさんの方にキルトの魅力を伝えていって下さい。


 

瀨戸 信昭 様

 株式会社日本ヴォーグ社 代表取締役  
(公財)日本手芸普及協会 理事長
 
日本のキルト界が、その後大きく拡大するきっかけになったのが、当時オープンしたばかりの東京国際フォーラムで開催された「国際キルト博」(主催:(公財)日本手芸普及協会)でした。
1998年6月17日からの4日間で約10万5,000人の入場となった都内初のキルトイベントは、準備期間に2年を要し、世界18ヶ国から450余の作品の展示、アメリカのキルター7名を含む21名の作家によるセミナー&ワークショップ、ファッションショー、それに103コマのマーケット(海外11社、国内62社の出店)は社会にも大きな反響を呼びました。
当時、小野山タカ子先生は、吉祥寺でキルトショップを主宰され、流暢な英語でアメリカから著名な作家を招聘してキルト界のリーダーのお一人でした。
先生は(公財)日本手芸普及協会の理事も務められ、国際的な人脈も幅広い事から、「国際キルト博」の実行委員のお一人として、実現までの2年間とても精力的なお取組みを頂きました。
先生の日本のキルト界の発展にかける熱い想いは時として、委員会の中で厳しいご意見にもなり、議論伯仲。一方で、イベントで来日された海外作家の方々が小野山先生と大変なごやかに親しげに再会をよろこぶ様が思い出されます。
先生の真剣なキルトへの情熱は、イベントの大成功をもたらし、そして多くのキルトファン拡大につながっていった事は言うまでもありません。


 

黒羽志寿子先生

キルト講師
 
小野山さんと「耶馬」で初めて逢った時、私は、日本の布のブロードはいかに手縫いが辛いかを訴え、アンティークキルトの魅力を伝え、大作を教えたいとお話ししました。
「じゃあ、ここで大作のコースをやって!場所は用意するわ」と言ってくださり、最初は銀行の会議室を借りて生徒を募集しました。すぐに集まった20名の生徒とのレッスンが始まりました。
布を探しに彼女の運転で日暮里・西日暮里に出掛け、店を一軒一軒歩き、一反二反と買っては車に積んで帰ったものです。その後、私の持っていたアメリカンコットンを3㎝×3㎝にカットして大学ノートに貼り、「これを持ってアメリカに仕入れに行ってくれない?」と頼むと「売れるかしら?」と、一寸自信なさげなのを、私も売るのを手伝うからと、大事な物を入れられるように底に隠しポケットを仕込んだ藍染の手提げを作ってプレゼントし、送り出しました。入荷した布を棚に並べた時の彼女は、出発の時と違い自信に満ちていました。
その後の彼女の活躍と彼女の店の名前は、布好き、キルト好きなら知らない人はいません。懐かしい思い出です。


 

有岡由利子先生

コットンハウスアリオカ代表
 
小野山さんと私の出会いは1978年。
私はいろいろな事を教えて頂きました。
優しくて知的な先生を尊敬し大好きでした。
米国キルトショーはいつもご一緒させて頂き、朝早くから夜までレクチャーを受け、ショーの後は現地ツアーに参加しアンティークキルトを探したりキルトショップを訪ねたり....多くのキルトに触れることをとても幸せに感じ、楽しい日々を過ごし語り尽くせない多くの思い出を作りました。
ボストンに行ったとき、二人で「お寿司屋さん」を覗いていたら「仕事を探しているのですか?」と尋ねられて大笑いしたり.....
パデューカでは外国の方々と共にホームステイをしたり....
テネシーからシカゴまでドライブをしたり....
アンティークキルトのお店で二人とも同じキルトを気に入ってしまいジャンケンしたり....(その時は私が勝ちました(笑))
先生の姿にはいつも学ぶ姿勢を感じていました。
私が今も大切にしている先生の言葉があります。
 「私はキルト屋のおばさんが大好きなのよ!」
私はこの言葉が心の糧となっているのです。
 「私はキルト屋のおばさんが大好きなのよ!」

 


 

前田由紀子 先生

小ぎれ詩の会代表
 
今の若い方には理解できないかと思いますが、約40年前の日本にはまだパッチワークキルトはあまり知られていなかったのです。小野山先生は日本にこの素晴らしいパッチワークキルトを普及させようと尽力された方です。
先生は堪能な語学力を活用して「キルトハウス耶馬」のために度々渡米し、講習会に参加して新しいテクニックを吸収し、私どもに教えて下さいました。また、海外でご活躍の先生を招いて講習会を開き、アメリカンキルトの今を見聞きする機会を与えて下さいました。
小野山先生とは長いお付き合いです。いつも元気いっぱい食欲旺盛で、お仕事をエネルギッシュにこなし、スピード感満点の運転をなさる豪快な方でした。
10年に及ぶ病魔との戦いに苦しむ先生のお姿は見るに忍びない思いでした。なくなる3ヶ月前、体調不良にも関わらず、こぎれの会の展示会にお越し下さり、最後まで弟子たちの行く末を案ずるどこまでも優しい先生でした。
先生が計画された外国の先生方の講習を受けたことと、キルト三昧の海外旅行に何度もご一緒できたことは私の宝物です。


 

今 ひろ子 様

 株式会社日本ヴォーグ社 出版・企画開発部長

 

「今ちゃん、夢があるのよ」と、新築のアンティークキルトの収納室で、貴重なコレクションの数々を見せてくださった小野山先生…、私の恩人です。
私がキルトの編集に携わることになった1989年の秋、まずはメッカであるヒューストンを見た方がいいと、小野山先生に同行を願い出た会社の申し出にご快諾くださり、右も左もわからない私を、プレのマーケットからその後のポートランドでの個人商談まで連れて行ってくださり、少しでも早くキルトの多くを理解するように導いてくださった先生。堪能な英語で、次々とビジネスをまとめられ、また海外の名士からもキーパーソンとして扱われ、鮮やかで天晴な仕事ぶりに尊敬いたしました。それからはいつも私の背中を押してくださる先生の夢に、私もいつかお応えしなければと思っていました。日本におけるキルトの発展に草創期から個人で尽力されていた先生。もしご存命下さっていれば、今のキルト界はどうなっていただろうかと、空虚な思いを馳せることがあります。故にこの度、このような寄稿の機会をいただきましたことに感謝申し上げます。