小野山タカ子,キルトハウス耶馬,セミノールパッチワーク

小野山タカ子とセミノールパッチワーク

  
小野山タカ子,キルトハウス耶馬,セミノールパッチワーク
 

 
小野山タカ子は、パッチワークに関する書籍をいくつも手がけていましたが、その中に、昭和58年に主婦の友社より発刊されました「ミシンでスイスイできるセミノール・パッチワーク」があります。
パッチワーク小物の作り方と、現地であるセミノール・インディアン居留地へ実際に向かう彼女の様子も書き記されています。
書籍の中の彼女のエッセイを新しい写真を追加して一部ご紹介いたします。
(書籍内、わたしとセミノール・パッチワークの全文はPDFにてご覧いただけます。その他、作り方などは掲載しておりませんのでご了承ください。)
 


 
 
小野山タカ子,キルトハウス耶馬,セミノールパッチワーク

 

わたしとセミノール・パッチワーク


 
 なんとなく隠し事を持った後ろめたさを、空港まで送りに来てくれた家族に感じながら、サンフランシスコへの飛行機に乗ったのは1981年の夏のことでした。仕事の都合で約2週間の米国滞在予定の間に、4日ほどの暇がつくれそうでしたので、かねて望んでいたセミノール・インディアン居留地へ旅を実行しようと思い立ちました。セミノール・パッチワークの仕事をしながら、まだ本場のものを見る機会がなかった私は、なんとか実物にふれてみたいという思いが日ごとに膨らんでいきました。
「今回は、ちょっとフロリダのインディアン居留地へ行ってみたいと思ってるの」
「インディアンの居留地? 何しに? 危ないことはないの? よしたほうがいいよ」思いがけない息子たちの反対にちょっとたじろいだ私ですが、西部劇程度の知識の彼らを説得するすべもなく、プランは私の胸の奥深く潜行していきました。
 マイアミについてはいろいろ書かれていても、セミノール・インディアンについてはさっぱりで、こうなったら全てはサンフランシスコでと、不安と期待を胸に抱いて出発したのです。
 

 
小野山タカ子,キルトハウス耶馬,セミノールパッチワーク
 

 
あこがれのインディアン居留地へのステップ


 サンフランシスコでの最初の仕事はキルトの関係者ばかりの会合で、参加者は広範囲に及んでいましたから、私はやっきになって情報を集めました。結果は芳しくないものんばかりでした。季節的にも夏のマイアミは、その暑さのためにシーズンオフということでした。失業者が多くでダウンタウンは危険であるとか、沼地の蚊が凄まじいとか、セミノール一族の人たちは排他的で、きっとがっかりするだろうなどなど、私の心はカリフォルニアの空とは反対に、すっかり暗くなっていきました。
 ところが、運よくブラドキン夫人がこの会合に来ていた、マイアミのキルト・ショップの経営者ジェーン・サイモン夫人を紹介してくれ、とっかかりをつかむことができました。
 闇夜のちょうちんどころか太陽を見つけた思いで、シスコでの仕事を片づけると、荷物を友人の家に預かってもらい、身のまわり品に日焼け止めクリーム、虫刺され防止剤と日よけの帽子を持ち、バッグ一つの軽装で、夜10時出発のマイアミ直行便に乗り込みました。早朝、マイアミ空港に降りた私は、早速空港近くのホテルにチェックインすると、朝食もソコソコに居留地へのルートを探し始めました。幸い観光バスのコースにセミノール・インディアンのクラフトセンターが組み込まれているのを知り、翌日のコースの予約を入れてほっとしました。
 翌日、私たちを乗せたバスは、見渡す限り広々とした原野の大きな空の下、タンパとマイアミを結ぶタミアミ・トレールと呼ばれる道を、西へ進んでいきました。バスが道の端によって止まると運転手がそばの流れを指差して、ワニがいると教えてくれました。のんびり昼寝しているワニも驚きましたが、その後たびたび見つけては教えてくれる運転手は、よくこのスピーズであんな泥のかたまりと見違えそうなワニを発見できるものだと、内心あきれてしまいました。

 
 
 
 
 
小野山タカ子,キルトハウス耶馬,セミノールパッチワーク
 

 
セミノール・インディアンのミニ・ヒストリー



 ここで少しセミノール族について説明しておきましょう。昔ジョージアからアラバマ周辺にいたクリーク・インディアンの血を引く一族で、その後南下してきて、現地の種族や逃亡した黒人奴隷などがまじり、野生の人を意味する、セミノール(英語読み)となりました。
 2000年ほど前までは、他の種族と同じように毛や皮で作った服を着ていましたが、英国人との交流を通して、スコットランドのタータンチェックのスカートを手に入れ、その影響もあって、男性はワンピース風の服を着始めたようです。なにしろこの暑さなら男といえども、スカートの方がずっと快適だと私も思います。
 逃亡奴隷を匿ったり、新大陸が英国から独立するために起こした独立戦争では英国側に加勢したこともあって、当時スペイン領であったフロリダが合衆国の手に渡ってからは、政府や南部の奴隷の持ち主たちから、ミシシッピーの新しいインディアン領地への移住を迫られました。これに抵抗し続けた勇猛果敢な一族は、当初5000人いたと言われたのが、1850年代には200人ほどとなってしまいました。そして沼地のわずかな土地での農作物で暮らしていました。
 世間がすっかり落ち着きを取り戻した今世紀初めに、彼らの手元にもミシンが入ってきました。そしてこのミシンを利用して紐状の布をつなぎ合わせた横縞が、男性用ワンピースや女性のスカートに取り入れられてきました。やがてこのピースにした縞を作り、またつなぎ合わせたパッチワーク風のものが作られだしました。
 1928年、タミアミ・トレールが開通した事により、今まで孤立していた世界へ訪れる白人もふえ、ここでまた彼らの歴史の新しいページが開かれました。男たちはスカートをズボンに履き替え、道路沿いの店でセミノール・パッチワークの施された服や人形、バスケット、木工品などを売ることを新しい収入源とするようになりました。
 

 

小野山タカ子,キルトハウス耶馬,セミノールパッチワーク

全文はこちらからPDFをダウンロードして下さい。
 
 
わたしとセミノールパッチワーク.pdf